◆◇ 正しき者は強くあれ ◇◆ 小説「クォ・ヴァディス」の使徒ペテロの話、作者の創作だと思っていたのですが、浅学を恥じますが、本当の話だったようですね。知りませんでした。
イエス・キリストが十字架にかけられた後、使徒ペテロがローマから逃げる途中、アッピア街道で夜明けの光の中に、こちらに来るイエスに出会うという話は、どうやら歴史上の事実だったようです。使徒ペテロの眼前に降臨したイエス様を祭った教会が、アッピア街道に建っています。
私の最大の暇つぶしである読書。乱読する様々な書籍からの知識ですので、雑学レベルであり、アカデミズムやら学術的な知識とは程遠く、こうした事実誤認があるわけです。
私は至ってケチですから、気に入った書籍は何度も読み返します。こんな安上がりな娯楽はないと思っています。古本ですと、数百円で何時間も楽しめます。
書籍は、本当に千差万別です。一度読んだら、もうお腹いっぱいになって、二度と読まない本もあれば、お気に入りになって、ボロボロになるまで読み返すものもあります。戦記物に時代小説、SFと、多岐のジャンルを渉り歩いております。
そのバラバラのジャンルに、あえて共通項を探すならば、心とか精神性、あるいは「感動」かも知れません。
愛であったり、自己犠牲、勇気に智謀。克己心や武士道でもあります。その中で一番、再読に耐えるのは、意外に宗教性のある著作です。
冒頭に述べた小説「クォ・ヴァディス」が、その筆頭ですが、ストウ婦人の「アンクルトムの小屋」、三浦綾子の「塩狩峠」など、自己犠牲と愛の精神に、心が震えた作品は、当然のことボロボロになるまで何度も読み返します。宮沢賢治も加えておきたいですね。
しかし、それがどうも最近、素直に感動できなくなって、少し困っています。私に知恵がついたのか、俗世間に染まって、清らかな心を失ったのか、はたまた、歳を重ねて素直さを失ったのか、自分ではわかりかねますが。
ともあれ、感動できないことが多くなった原因を考えてみますと、一つ思いつくことがあります。
「自己犠牲は結構だが、もう少し何とかならなかったのかな」という思いが持ち上がることが多いということです。
「自己犠牲」というものは、その人自身にとっては、信仰の勝利、天国への凱旋の道であることは間違いないと思います。
しかし、「違う手段や結果もあるんじゃないかね」と、まあ、オジサンとしては、主人公に余計なことを言いたくなるのです。
例えば「アンクルトムの小屋」の奴隷のトム。ご主人様の理不尽で残虐な命令に服従しないで、最後には、暴行を受け、まるで殉教するかのような死を迎えます。その渦中でも主人を許さんとするトム。
その信仰心や、愛、自己犠牲の精神には本当に感動しますが、心の奥の何処かに、こんな声も聞こえるのです。「服従したふりして、内部改革したら?」と。
その高い能力を買われて、奴隷頭として買ってこられたトムですから、相当のマネージメント能力はあったはずです。それを十二分に発揮して、ご主人様をうまく使うことは可能だったんじゃないでしょうか。少なくとも「殉教」せずに生き残り、農園のインサイダーで居続ければ、救える人も多くいたはずです。
時代が違うとは言え、残念な気がします。まあ、でも、こういう内容だから感動するのでしょうが。
「塩狩峠」の主人公にも、同じような感情を禁じえません。
暴走する客車に身を投げ出して停止させて乗客を救うという物語で、これは事実に基づいた話しです。感動感涙の話で、事実、この事件の後、多くのキリスト者が誕生したことで有名です。
でもそれでも「何とかならなかったのかね」と、どうしても思ってしまいます。
この二つの話の主人公の、一体何が問題なのか、もう少し考えてみました。
もっとも、私はこれらの作品が大好きです。その精神性に感服もしています。作品が、愛や信仰、自己犠牲の気高い精神を伝えるための、分かりやすく誇張した表現を用いた部分はあるとは思っています。更には、キリスト教にも尊崇の念を抱いています。それでもあえて、この二人の主人公を題材とさせていただきます。
問題の第一は、知恵と努力の不足が考えられます。
努力が足りないというのは、誤解を招きそうですが、努力する姿勢は大いに評価しますが、「結果にコミットする」という意味で、適切ではなかったのではないでしょうか。
西郷隆盛のように、殿様に反発して島流しになって再起する道もあれば、大久保利通のように、志は同じでも、殿様に取り入ってコントロールする道もあります。
非常ブレーキの適切な操作や、智謀の限りをつくして、驚くような解決方法を見つけられれば、塩狩峠の自己犠牲の死は避けられたようにも見えます。すなわち、足らないのが「智慧」なのです。
さらに、根本的な問題があると思います。それは、心の中に描いた理想像です。
自己犠牲の極致としての十字架を、理想像として心の奥底に据えれば、信仰の証明、発露としては自己犠牲とならざるを得ないでしょう。正しき者が信仰の勝利として自己犠牲に至るのです。
理想像を十字架とすれば、人生はその通りになります。その「正しき者が不幸になる」ことが、どうしても腑に落ちず、納得できないのです。
「アンクルトムの小屋」なんか、いじめそのものじゃありませんか。理不尽で暴力的で、この南部の農園なんか、学校と同じ密室の聖域そのものです。
正しいことを言って、悪から距離を取ったら、アンクルトムはいじめられ殺されたわけです。やっぱり、これではいけません。抵抗も必要、智慧も必要。何も暴力には暴力をと勧めているわけではなく、色々な智慧を絞って、しかも他にも助けを求めて、解決可能だと思えるのです。
外部からの助けだって、アンクルトムにも及びました。かつての主人であるジョージ坊ちゃんが、トムの死の床に訪れてきたのです。バカ正直にガチンコで、極端にぶつかりあわなければ、ジョージ坊ちゃんの救いの手も間に合って、ハッピーエンドを迎えられた可能性も高いのです。殉教精神が上回って残念な結果になってしまったように思います。
やはり、最後はハッピーエンドで終わりたいものです。
いじめられようが、失敗しようが、いつも心に太陽を持って、しぶとく図々しく、知恵の限りに努力の汗を流す。世の中、そう捨てたものでもありませんから、捨てる神あれば拾う神あり、誰かが手を差し伸べます。希望を捨てずに、戦い続けてほしいのです。
義人が敗れるなど、まっぴらごめんです。「正しき者は強くあれ」というではありませんか。悪になんぞ、負けちゃなりません。
だから、心に描く画は、絶対にハッピーエンドにしましょう。
仏教で言うではありませんか「利自即利他」と。自分も他人も幸福にするのです。悲劇なんか絶対に必要ありません。「人生、I CAN 勝利あるのみ」です!
子供たちには、心の中で繰り返し、繰り返し、自分に言い聞かせることで、自分も環境も変わることができると信じてほしいと思っています。
こしがやじろう

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